ならまち取材(2回目)の記録 | Nozomi TANAKA ならまち取材(2回目)の記録 – Nozomi TANAKA

 

     
ならまち取材(2回目)の記録

2016年に参加したアートプロジェクト「古都祝奈良 -時空を超えたアートの祭典-」の取材記録です。
 
作品ページ
 
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オリエント館オーナーの松山さんは、ならまちに生まれてずっとこのまちを見てきた方だ。

今でこそ観光客がおとずれる場所になったが、つい10〜20年前は過疎高齢化が進んでとてもさみしいところだったという。その頃、大阪などの大手資本が入り込んで、土地を買い上げて再開発する動きが持ち上がったが、「この伝統的な街並みが壊れるのはいけない」と考え、古い町屋や蔵を生かした地域づくりをはじめられた。それは、いま東北の各地で行われているまちづくりの先駆け的な活動に思えた。

そもそも「ならまち」という町は存在していない。松山さんたちが自分たちの町のアイデンティティとして、この暮らしが営まれてきた場所を「ならまち」と呼ぶようにしたそうだ。だから、ここを「観光地」として人を呼び込むというやり方じゃなくて、「生活の場」としてのならまちに人が訪れる、というあり方を大切にしている。

 

ならまちの町屋はとても奥行きがあるのが特徴的

 

壁に打ち付けてある木は麦蔵だったころの名残

 

 

このオリエント館も、そうしたまちづくりの拠点のひとつとして、松山さんが使っていなかった蔵をギャラリーとして開放した場所だ(元々は麦蔵だった)。そのようなことを始めた頃、偶然知りあったアメリカ人の収集家が、「自分のペルシャの文物コレクションをシルクロードの終着点である奈良で展示をしたい」と申し出たので、ここを「オリエント館」としたという。さらに偶然にも、このころに奈良で「シルクロード博」がはじまることとなり、オリエント館もその博覧会で紹介されることになったという。

 

 

場所を変えて、となりの喫茶店で子供のころのお話や蚊帳についても伺った。喫茶店のオーナーさんも交ざって話を聞かせてくれた。

松山さんが子どものころは、ならまちにも子どもがたくさんいたので、家の前の通りでみんなして遊んだという。ちなみにその頃は当然、舗装された道路ではなくて、土の道で、両側に水を流すための溝が掘ってあった。また、通りには商店がいろいろあって、日用品や野菜など近所で買っていたらしい。かつては市が開かれて、この通りが街道筋だったこともあって、いろんなところから人が訪れていたようだが、松山さんの生まれた時代には、そうした市は行われなくなっていたとのこと。昔は市役所が現・ならまちセンターのところにあったので、通勤の人たちで通りは随分と賑やかだったが、場所が移ってからは、がくんと人の通りが無くなり、お店も減っていったという。ちなみに、今市役所があるあたりも、松山さんが子どものころはまだ一面田んぼだったらしい。

(光村推古書院「入江泰吉の原風景 昭和の大和大路」より)

 

 

 

周りが田んぼだったせいか、「当時は今よりも蚊が多かったような気がする」と、松山さんはおっしゃっていた。蚊帳についても伺った。蚊帳は、入り方にコツがあるのだと、みなさん同じようなことを教えてくれる。それは、「ぱぱっとふってしゅっと入る」らしい。虫を一緒にいれてしまわないようにするにはテクニックがいる。当然ひとりではなく、兄弟や夫婦、みんなで入って寝る。そろそろ蚊がでてきたなあ、という頃に出してきて、蚊がいなくなった頃にしまう。蚊帳は高価なものだから、ほつれたからといって、そう簡単に買い換えられない。破れたりしたら繕って大切に使う。網戸やクーラーがなかったころには、窓を開け放していないととても夜は眠れなかったから、蚊帳は生活の必需品だった。とはいえ、蚊帳の中は暑いので、うちわでなんとか涼んだりしていたらしい。

 

 

松山さんからお話を伺った後は、こんどは吉田蚊帳さんの所にお邪魔した。

吉田蚊帳さんはオリエント館のすぐ近くにある、大正10年創業の老舗だ。もともとは奈良晒の布を取り扱うお店だったが、晒布の需要が落ち込んできた頃に蚊帳の製造に目をつけ、大正10年より蚊帳の製造販売を行っている。

 

吉田蚊帳の店舗。母屋は築100年らしい。

 
 

オーナーの吉田さんにお話を伺った。

蚊帳は昔は麻とか絹の高級品で、それこそ上流階級しか持てないものだったから、庶民は煙を焚いて(蚊遣り火)蚊を追い払っていた。戦前には紙の蚊帳も少し使われていたようだが、詳しいことはよく分からないという。

蚊帳は戦後、明治末から大正にかけて、レーヨンや動力ミシンの普及によって、一気に広まるようになったという。それがちょうど奈良のならまちの辺り。戦前〜昭和の初めには、蚊帳は嫁入り道具の必需品であった。それ以前には、柳生や邑地、桜井の方で麻が栽培されていたから、農家・民家でほそぼそと、手仕事で蚊帳が作られてはいたようだが、大量生産は当然できるものではなかった。

普及するにつれて安い素材で作れるようになっていったが、やはり麻とはモノがまったく異なり、麻は繊維の特性上、湿気をよく吸収するからより快適になるという。風邪通しと湿度を下げる高価は麻が一番で、ナイロンも一時期流行ったが、やはり湿気を吸わないということで、だんだんすたれていったようだ。吉田蚊帳さんでは今は本麻のものしか扱わないとのこと。

蚊帳は、住宅に網戸が入り混んでから急に需要が落ち込んで、その後のクーラーの普及もあって、突然生活から姿を消していったため、その文献もほとんど残っていないということ。しかし蚊帳が生活の必需品だったころは、蚊帳の製造は朝の7時から夜の9時くらいまで行われ、それでも足りないということで、みんな家にミシンを持ち帰って家庭でも内職して作っていたという。なので、ならまちのこのあたりを歩くといつもミシンの音がしていた。そして東京の寝具問屋なども、ならまちまで出来上がった蚊帳を取りに来ていたのだという。

吉田蚊帳さんの店舗の中には色とりどりの涼しげな蚊帳生地がならぶ。

蚊帳の色についてお聞きしたところ、全国的には濃い深緑に赤い縁のものが多く使われているが、関西は下がブルーで上が白のぼかし染めものが涼しげで好んで使われた(戦後)。ちなみに名古屋では一面ブルーの浅葱染めのものが多く、地域性があるという。

蚊帳は外から中が見えにくいということで、かつての日本家屋はプライベート空間というものがなかったから、入ることで安心感が得られるものでもあった。また、蚊帳は何年も大切に使うものだから、ほつれたりすれば継ぎ接ぎをしたりしてつかっていたことだろう。大量に作ることで当然端切れなども出たのだが、そうした端切れや使い古したものなどは、雑巾にしたりかまどの焚き付けに使ったり、また家の土壁の壁材にも土が落ちにくいということでかなり多くつかわれていたらしい。あとは寝込んだ時の床ずれ防止にも使えるとのこと。少し昔までは家に布団があるのと同じように、蚊帳があるのは当たり前だったと語ってくれた。


Date: 05/29/2016 | Category: フィールドノート|制作|地域 | Name: Nozomi TANAKA