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七曲り坂から鹽竈神社を参詣し、表坂へ下る。 ちょっと分かりづらいけど、手前(右側)が権現堂方面、奥(左側)が赤坂方面。水源がどこなのか気になったので、辿ってみることにした。 ![]() 鳥居をくぐると小さな沢があり、橋がかかっている。(6/27追記:金谷豆腐店のご主人に伺うと、ここから見える沢の風景は昔の雰囲気を残しているのだと教えて頂いた。) ![]() ![]() ![]() 隧道を抜けると、県道の車の音は水の音で打ち消されて、沢のせせらぎが心地よい。少しだけ時代を遡ったような気分になる。 ![]() 山を背にする形でお不動さんの祠が建っている。この波切不動尊の由来については、石碑にこう書かれている。「江戸時代、夢枕に不動尊が立った都の僧侶が、泉沢堤の畔でお不動様を見つけだし、当地の清水湧く崖の窪みに祀ったと云われる。戦争中鉄道敷設のため隧道の先に遷座した。」 この場所に移されたのは戦時中ということで歴史的には新しいようだが、もともと祀られていた「清水湧く崖の窪み」ってどこなんだろう?泉沢堤の畔で見つけられたというのが本当なら、このお不動さんはいつどこでつくられたものなんだろう?と興味深いが、現時点の自分のなかで、とりわけに気になってきたのが、このお不動さんが戦争中鉄道敷設のため移動したということだ。この出来事は、「東北本線」というものも、鹽竈の場所性を捉える上で重要なものになってくるのだということを示してくれている気がする。 (7/3追記:塩釜市の年表で確認してみると、1944年(昭和19年)に「東北本線海岸線回り開通。」とある。先日6/26、金谷豆腐店のご主人(昭和20年生まれ)に伺った話では、「この東北本線の高架ができたのが昭和19年で、ちょうど自分が生まれる1年前にできたんだ」とのことだったので、お不動さんが移動させられたのもこの頃だろうか?) 東京に発し盛岡まで至る東北本線の歴史を知ることは、東北というものが作られていく過程を知ることにも繋がっていくのではないか。このことについては、改めて焦点を当てていきたいと思う。
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