塩竈取材(赤坂とキツネ) | Nozomi TANAKA 塩竈取材(赤坂とキツネ) – Nozomi TANAKA

塩竈取材(赤坂とキツネ)

赤坂は権現堂と隣り合う地区で、こちらも古い道や民家が多く残っている。
 
 


 
「六坂の一つで、坂の上部は念仏担と呼ばれた。仙臺街道整備に伴う開削土砂は、西町などの埋立に利用されたと思われる。塩竈集塊岩といわれる安山岩質の赤褐色土壌が名の由来」(石碑文より)
石碑のそばにはマンションが建っているが、かつては越後屋があり、街道の分岐点になっていた。神社の表坂付近は花街で、旅籠屋も多く、賑やかだったことだろう。  
 
 

赤坂の坂の入り口は、東北本線の線路と交わる。線路下から権現堂方面をのぞくと、コンクリートの壁にマルバツゲームの跡が。
 
 

 
坂道の途中に石碑がある。庚申碑と…、あとは読めない。
 
 

左手が赤坂、右手が母子沢へ至る道


 

 

 

手前は塩竈石の石垣かもしれない


 
 
塩竈の民話の中には、「キツネがあばれまわって困らせられた」という話が多く、この赤坂にもキツネ話が残っている。
歩いてみると、こちゃこちゃとした路地もあったり、いまでは舗装された坂道も、かつては峠を越えるようなものだったのだろうから、いかにもキツネが出てくるような坂道だったのかもしれない…と想像しながら歩いていた。『新訳 奥鹽地名集』(p98)によれば、「江戸時代、塩竈港で水揚げされた五十集(いさば=海産物)は仙台城下に運ばれたが、これを運んだ駄ん子馬(だんこうま)はこの坂を盛んに往来し、この馬方らを化かす赤坂狐の伝説が語られていた」そうだ。
赤坂をはじめ、どうしてこのようなキツネ話が塩竈周辺で多く語られたのだろうか。
渡辺誠一郎先生に聞いてみると、伊達四代藩主綱村の政策で仙台の遊郭を塩釜に移したことが、こういったキツネ話が生まれる背景にありそうだと教えて頂いた。綱村の時代、城下町の遊郭によって武士たちの士気が低下するとかで、仙台の遊郭の営業を(公には)禁止し塩竈へ移動させた、という話は、ちょうど最近仙台の歴史を調べる中でもしばしば聞いていた話だった。仙台城下へ五十集を運ぶ馬方らは、ここ塩竈の女郎屋で散財し、「赤坂でキツネに化かされた」ということを言い訳のように使っていたのかもしれない。
塩作りの及川さんからも、神社の表坂・西町〜赤坂周辺がかつて花街だったという話を伺っていた。「秡川を埋め立てる前には赤坂の麓までが入江で、船が入っていけたらしい。川の両側に立ち並ぶ遊郭からは船上の客へ女郎たちが手を振り、客はその様子を仰ぎ見ながら品定めをしたのかもしれない」。
 
神社参拝の人々と花街の客が交差する、なんとも「いかがわしく」魅力的な場所に思えた。もしも遊郭の女郎たちが日記でも残していたら読んで見たいものだ。


Date: 06/27/2018 | Category: フィールドノート|地域 | Name: Nozomi TANAKA