5/19飯舘村(飯舘村でのアートプロジェクトを考える-①) | Nozomi TANAKA 5/19飯舘村(飯舘村でのアートプロジェクトを考える-①) – Nozomi TANAKA

 

     
5/19飯舘村(飯舘村でのアートプロジェクトを考える-①)

5月19日、飯舘村の視察の記録。長くなるので何回かに分けて投稿します。

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5月頭、北川フラムさんから幾人かのアーティストらに呼びかけがあった。
飯舘村でのアートプロジェクトを考えるための視察+ヒアリングの第1回目を、5月19日に行うというものだった。
2011年3月11日の原発事故によって、森林・農地・住宅をはじめとするあらゆる環境が放射能で汚染されてしまった飯舘村。事故から8年が経ち、除染によって避難指示が解除された地域もあるが、帰村される方は少ない。この復興の道のりの厳しさについて、フラムさんは、「アートの力で何かできないか」と、住民と協働している人たち及び住民有志から受けてきたそうだ。
飯舘側の世話人は、2011年6月から飯舘村で活動を行なってきた「NPOふくしま再生の会」の田尾陽一さん(理事長/原発事故によって自然と人との共生関係が破壊されてしまった飯舘村の再生のために、地元に移住し、帰村した住民とともに活動をしている)、菅野宗夫さん(副理事長/佐須行政地区住民)。視察当日は19名のアーティストが集まり、北川フラムさん、田尾さんらと共に村内を回った(村会議員の佐藤健太さんと和牛生産農家の山田豊さんも合流した)。最後に、帰村した住民の方々との懇談+相談会を行った。

(今回の視察の様子は「ふくしま再生の会」さんのレポートでもご覧頂けます→http://www.fukushima-saisei.jp/report/20190522/2683/

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5月19日の行程
佐須地区から帰宅困難区域の長泥(ゲート前)までを回り、最後に佐須地区の旧佐須小学校にて再生の会+村民の方との懇談・相談会

 

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飯舘村は福福島県浜通りの北部に位置する村で、その面積の約75%は山林が占める。標高は500m程度と高く、福島の浜通り地域でありながら、高原地帯の冷涼な気候にある。産業では、地域の自然を活かした農業が中心だが、冷害が常襲するため、稲作とともに畜産が行われている。
1956年に旧大館村・飯曽村が合併し、飯舘村が成立した。村には20の行政区があり、区を単位とした地域づくりを行なってきた。
2011年3月の福島第一原子力発電所の事故前には、6132人/1716世帯(2011年3月1日現在)が暮らしていたが、事故が発生し、同年4月22日に政府から全村避難地域に指定され、住民は村外へ避難させられた。それから6年後の2017年3月、一部帰還困難地域(長泥地区)を除いて避難指示が解除となった。しかし帰村したのは1321人/652世帯(2019年6月1日現在)で、住民の殆ど=4261人/1651世帯は現在もよその地域で避難生活を余儀なくされている。飯舘村の一番南側に位置する長泥地区はいまも帰宅困難地域に指定されており、地区への出入り口にはゲートが設置されている。

[参考リンク]
https://www.cpij.or.jp/com/ac/reports/13-1_1.pdf
http://www.vill.iitate.fukushima.jp/uploaded/attachment/9305.pdf
http://iitate-madei.com/village05.html
https://www.mbs.jp/eizou/backno/170528.shtml

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福島駅から飯舘村へ向かう移動中のバスの中で、飯舘村の現状について田尾さんからレクチャーを受ける。
現在も村民の多くが福島市や伊達市での避難生活を送っている。村役場には帰村しましたと届出を出しているが、実際には村には住んでおらず、村の集会や墓参り、草刈りの時だけ村に帰ってくるという住民が少なくないそうだ。そこには放射能への不安もあるが、それだけではなく、長い避難生活のなかで、子どもが学校に通い始めたり、若い夫婦は避難先で仕事に就いたりしているという理由がある。飯舘村には仕事がなく、戻ってきたいという想いがあっても、仕事がなければ生活を立てることができない。お年寄りだけが、自分の畑を耕しながら生きて行こうということで帰ってきているという状況だそうだ。村民のみなさんがそれぞれいろんな事情を抱えながら暮らしている。
車内で個人線量計と空間線量計を配られた。インターネットなどで目にしたことはあったが実際に手にするのは初めてだ。今回はこれらを持ちながら村内を回る。

▲空間線量計:ガンマ線が一発通過するごとに「チッ」と音が鳴る

▲個人線量計

注)「個人線量」「空間線量」
個人線量とは、個人線量計を使って測定した個人の被ばく線量のこと。個人線量計は、個人が受けた外部被ばく量(積算線量)を図る測定器。
空間線量とは、空間における放射線の量(強さ)で、一般に大気、大地からのガンマ線、宇宙線等が含まれる。単位時間当りの線量を線量率という。
引用→http://josen.env.go.jp/nasubinogimon/movie/2movie5.html?id=movieAreaTop

飯舘村の一番北に位置する佐須地区に入り、佐須峠で一同バスを降りる。

ここで田尾さんが飯舘村の被災状況などについて説明をしてくれた。
この目の前に広がるのどかな風景のすべてが放射能に汚染されてしまった。農家の方が代々受け継いできた田んぼの土はすべて剥がれ、230万個のフレコンバックとなった。土を剥いだ土地の上には、新しい土が被せてある。震災前であれば、この時期は苗で青い田んぼの風景が広がっていたことだろう。現在は住民が避難しており米も作ることができないが、それでも農家として土地を荒らすことができないという想いから、草刈りして土地を保全しているそうだ。農地の除染によって生み出されたフレコンバックは沿岸部に運ばれる計画になっているが、移動が進んでおらず、除染した後の農地の上に積み上げられている状態にある。移動が完了するのは4年後の見込みだそう。
さらには現在、この場所に、東京へ電力を送る巨大な50万ボルト送電線を作る計画が着々と進んでいるという。住民の中にもさまざまな意見があるというが、この景観がこの村のなによりの資産だと考えるという田尾さんは、放射能の汚染に加えて送電線の建設によってさらに村の姿が壊されてしまうことを危惧する。
食料でもエネルギーでも、福島が東京への供給地として消費されてしまっているのではないかと感じた。

12時頃、昼食をご用意頂いている「農家レストラン 氣まぐれ茶屋ちえこ」に伺う。

こちらは今年の5月にようやく営業を再開したという。店主の佐々木千栄子さんがお料理を運んできて下さった。

また、こちらでは村の特区指定を受けて2005年からどぶろく造りを行っていた。震災によって生産を中止していたがそれも再開し、店内にはどぶろくの瓶が並んでいた。

昼食を終えて、佐須地区滑にある「ふくしま再生の会 飯舘事務所」へ向かう。
移動中にも佐須地区の現状について田尾さんからご説明いただく。
佐須地区からは代々村長が多く出ている。人間の人口よりも猿の人口がはるかに多く、猿やイノシシと遭遇することが日常茶飯事となっている。田んぼは砂を入れてしまったので水はけが悪くなっている。などなど…

事務所に到着し、ふくしま再生の会副理事・佐須地区行政区長の菅野宗夫さんにお話を伺う。

菅野さんは農家。言葉で伝える力が非常にある方だと感じた。
菅野さんは、農業はそこにしかない風土をつくる芸術家だという想いでずっとやってきたという。今回の事故は誰しもが経験したことのない、人間が科学技術の活用でもらたらしてしまった事故。それをここからは再生していかなければならないという思いで、果敢に取り組んでいる。しかし、この地区住民は、「見えないものとの戦いで、心が分断されてしまった」。見えない部分で失ったものは計り知れない。だから、この地域をできるだけ多くの方に、継続的に体験していただき、この問題を、福島の地域の問題としてではなく、自然と人間・科学技術のあり方の問題として、世界中のみんなが当事者として考えて欲しいという。福島を支援する/されるということでは分断を生む。そうではなく、この問題を共有して考えて欲しい、という訴えを伺い、こうした背景に、どれだけ「分かり合えないことの苦しさ」を感じてこられたのだろうと想像した。

敷地内の施設もご案内頂いた。

事務所の反対側の丘の上は震災前までは牧場だった。震災当時、田尾さんがここに来たときには11頭の牛がいたが、牛は処分し皆さんは避難した。それから牧場は使われず荒地になっていたが、今年になってからぶどうの木を一帯に植えた。北海道池田町で十勝ワインを作っている方からご協力を頂いて、いろいろな種類のぶどうの苗を植えて試験中らしい。

放射能の測定小屋(田尾さんたちが一から手づくりした)。地域で取れた農産物、空気、水などの放射線量を測定する。

ビニールハウスでは、大学機関と菅野さんが協同し、点滴養液栽培による野菜栽培の試験を行っている。

猫のくうちゃんは震災前から飯舘村に住んでいる。ご高齢でおっとりした子。

>>飯舘村でのアートプロジェクトを考える-②に続く

 


Date: 06/06/2019 | Category: 地域|飯舘村 | Name: Nozomi TANAKA