ひじおりの灯取材ノート① | Nozomi TANAKA ひじおりの灯取材ノート① – Nozomi TANAKA

 

     
ひじおりの灯取材ノート①

※本投稿は、Facebookページ「ひじおりの灯【灯籠絵制作ノート】」(https://www.facebook.com/hijiorinohiNote/)で書いた記事の転載になります。「ひじおりの灯2020」に参加する作家が、取材や制作過程を投稿していきます。ぜひページをフォローしてご覧ください。
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肘折取材記録(6月14〜16日)|作成:田中望

私が「ひじおりの灯」に参加するのは今回で7回目になります。
毎年5月中旬に取材合宿があり、春の芽吹きや山菜採りを楽しみに肘折へ向かうのですが、今回はいつもとは違う緊張感と、久しぶりに訪れる喜びを感じながら、例年よりも1ヶ月ほど遅れての肘折入りとなりました。
肘折までは仙台から自家用車で向かいました。道中、葉山や残雪を冠る月山が見えると、あの間に肘折があるんだなと胸が高鳴ります。舟形まで来ると遠くに鳥海山まで見えていたのですが、最上川にさしかかった辺りから小雨がぱらつき始め、肘折に到着した頃には本降りとなっていました。
今回の滞在では大穀屋さんにお世話になりました。旅館にチェックインする際には検温があり、玄関や各フロアには消毒液が置かれ、従業員の方も他の宿泊のお客さんも皆マスク姿でした。しかし、ものものしいといった印象ではなく、肘折のあたたかい雰囲気はいつもと変わらないように感じました。
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以下では、今回の取材で伺ったことを3つのテーマに分けて紹介します。

【肘折に居る人々】
肘折は、湯治場であり観光地でもありますが、滞在していて気がつくのは、生活の場でもあるということです。旅館や店舗はそのまま家族が暮らす家でもあり、通りをあるけば店先で子守りをしている姿が見えたり、服装はよそ行きというよりも普段着な感じで、他所から来る人たちを迎え入れることが、自然なふるまいとして生活の中にあるような感じがしました。
逆に、地元の方は肘折に来るお客さんについてどのように捉えている伺うと「ここに来る人たちは皆『肘折に来るお客さん』であって、湯治客か観光客かという見方はしていない。いろいろな目的の人が来る混沌とした場所が肘折で、何を目的に来るかは自分たち受け入れ側が選ぶことではない。湯治でも観光でもないけど何回も来てくれるリピーターがいる」などと語ってくれまし。
自分自身は何を目的に来ているのかと考えると、湯治ではないし、観光かというとそれも違うかもしれません。旅館やお店のみなさんに相談しつつ、作品のテーマを探すのも、私にとって肘折で過ごす楽しみのひとつです。肘折は「何となくもやもやしたもの」の「もやもや」をそのまま受け入れてくれる場所であり、その「もやもや」についてじっくり考えられる場所のような気がしています。

【肘折口から捉えた肘折温泉】
肘折温泉の湯治場としての始まりは、月山との深い関わりがあります。明徳元年(1390)に月山への登拝道「肘折口」が開かれたことから、出羽三山参りの人々が多く訪れるようになったそうです。大同2年(807)に、地蔵様の導きによって発見されたと伝えられる「上ノ湯」は、聖地月山へ登る際の「みそぎの湯」として利用されてきました。そうした背景を知ってから、私は肘折温泉に対して「霊場」という印象を持つようになりました。肘折口から月山へ入ったことは残念ながらまだないのですが、肘折口について詳しい方にお話を伺うことができました。肘折口は月山への登拝道としては最も長いルートで、「仙台道者」(岩手・宮城・福島方面からの道者)が利用し、阿吽院([あういん]:中世以来、羽黒山・湯殿山の肘折口別当を務める)配下の松の坊・竹の坊・梅の坊の先達(山伏や庶民が修行で山に入る際の案内人・指導者)で月山に登りました。月山を経由して、鳥海山などへ巡礼の旅を進める道者もいたそうです。古くは「葉山・月山・鳥海山」あるいは「葉山・月山・羽黒山」を三山とし、その総奥の院が「湯殿」だった時代もあったそうですが、現在の出羽三山信仰のなかでの位置づけとしては、「羽黒山[現在]・月山[過去・あの世]・湯殿山[未来]」となっています。これら三山を巡ることは生まれ変わりの旅とされてきました。肘折口から肘折を捉えてみると、ここは「生き死にをめぐる旅の入り口(もしくは中継地?)」とも考えられるかもしれません。

【湯と病について】
『温泉からの思考-温泉文化と地域の再生のために』(新泉社)は、2011年9月に出版された、森繁哉先生と合田純人さんの「温泉対談本」で、私が肘折に訪れるようになってから繰り返し読んで来た一冊です。このなかで森先生が、草津などの温泉地がハンセン病の人たちのエリアをつくって温泉療法・治療を施して来たことや、その地域の人々も病人を受容して来たという歴史から、「病気」に対する認識として、国が「隔離政策」という形をとる一方で、温泉地に生きる人々の間では「病気も自然の一つだ」という認知の仕方があったのではないか、という考察をされていて、私はそれはとてもすてきな考え方だなと思っていました。それは今も思うけれど、「病気も自然の一つだ」と受容することは、同時に、死ぬことや苦しむこと、自分がだれかに感染すこと・感染されることへの罪悪感や自責の念なども受け入れることなのだろうかと、現在この感染症の現実のなかに生きてみて感じています。「病気も自然の一つ」という言葉は、私にとってどこかのどかで寛容な情景が浮かぶ言葉でしたが、じつはそんなやさしいことではなくて、「自然というものの容赦なさ」を言っていたのかもしれないと、はっとしました。ちなみに「肘折歴史研究会」さんの資料によると、かつて肘折でも、感染の恐れのある痘そう患者のための浴槽(疵湯[きずゆ])があったそうです(参考:肘歴通信 第9號「共同浴場 上の湯」のこと [発行 肘折歴史研究会)。

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地蔵倉への途中。肘折カルデラを見渡す。正面に見えるのは「三角山」で、写真では見えませんが、この山の向こうに月山があり、左方向に葉山があります。温泉街は右手下方向にあります。正面下をカラス川が流れています。


 

地蔵倉から、三角山(手前)と月山(奥の雪山)。


 

案内してくださった「つたや」の雄一さんが、足元に「蟻地獄があるよ」と教えてくれました。目の前には肘折カルデラ、足元には蟻地獄。


 
 

月山へ至る「肘折口」


 

湯の台から月山と葉山がみえました。


 

湯の台の稲荷神社から。右奥に見えるのが葉山。


 

最上川の川沿いにある烏川渡船場跡。仙台方面から出羽三山詣に来る人々は、ここで船を降りて、船着場近くにある阿吽院でお祓いを受けて、肘折に向かったそうです。


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滞在取材を終えて、灯篭絵のテーマをどうしようかまだもやもやと悩んでいますが、肘折が歩んで来た歴史や、いま感じることなどとじっくり向き合いながら、この場所に灯篭を灯すということの意味をあらためて考えたいと思っています。
取材に際して、大穀屋さん、ほていやさん、つたや肘折ホテルさん、カネヤマ商店さん、寿屋さん、松の坊さん、熊谷先生、肘折のみなさま、大変お世話になりました。
 
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