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2年前の8月15日に祖父が亡くなって、それまでは何かと理由をつけてお盆に実家に行くことを逃げていたけど、じいちゃんの命日だからという理由でなかば強制的に、この日は家族や祖母を過ごすようになった。 祖母は今年で92歳。耳は遠いが記憶ははっきりしているし声にも張りがある。おしゃべりが大好き。 和室の仏壇に線香をあげて手を合わせる。余談だが、じいちゃんの写真は、遺影と、その他に2枚飾ってあるけれど、そのうちの一枚が、どこか外国の国でコアラを抱っこしている写真なのがいつも謎で、ちょっと笑ってしまう。 祖母と会うのは2〜3ヶ月ぶり。話題は自然と戦争の時のことや若い頃の話になったので、チャンスと思い幾つか質問をした。 仙台空襲の後には、白石に住んでいた年上の友人に連れられて、焼け野原になった町を見に行ったこともあった。何にもなくなっていた。 終戦後は、原町(苦竹だったかも)にあったGHQの宿舎のハウスメイドの仕事をした。祖母は交友関係が広く、自分は頭が悪いから頭のいい人と友達になろうと、そういう宿舎で出会うお医者さんやその家族と親しくなった。そういう交友関係があったので、友人らと白石の武家のお家に遊びに行って(そこはまだ住んでいた頃の小関家らしい)、上等な着物や綿の詰まった分厚い着物などを着せてもらって遊んだ(写真もあるらしく「こんどお披露目するから」とのこと)。 時代が前後するが、祖母はもともと福田町だったか原町の方に実家があり、そこに親族含めて7軒ほど集まって暮らしていた。父は祖母が幼い頃に亡くなったらしい。小学校が遠く、一里も二里も歩いて、一日も休まず毎日通った。冬の吹雪の日も、長靴のなかに藁を詰めて履いていった。学校が大好きだった。お正月にはクラスの友人を連れ立って、学校の先生の家にお餅をご馳走になりにいった。 もう少し聞きたいこともあったが、祖母がいくら話好きといってもしゃべりすぎて疲れるだろうから、切り上げてお昼ご飯にした。食事をするためにマスクを取ると、「あら望ちゃん、パパさん(祖父のこと)のお母さんに似てきたこと」と言われる。これは2年前に祖父の葬儀で親戚が集まった際に他の親戚からも、さらには生前に祖父からも言われていたので、じっさい似ているのだろう。祖父は幼い頃に母・まもるさんを亡くして苦労したと聞いている。その後再婚したので腹違いの兄弟がいるそうだが、新しい母の元で寂しい思いをしたとも、それとなく聞いたことがある。 8月16日、本家の墓参りのため、葛岡霊園・善導寺墓地を訪れた。暮石を見ると、先祖の名前の中に「昭和8年 まもる 26才」と彫られていた。自分は現在31才。祖父の母-つまり自分にとっての曾祖母は随分若くに亡くなったようだけど、一度も会ったことのない曾祖母に自分が似ていることが、なんとも言えず不思議な感覚になる。父は長男なので、本家の墓を継ぐのは姉か自分かということになるが、どうもそろそろ”田中”じゃなくなりそうな姉よりも、自分の方が曾祖母に似ているということも含めて、いままでおざなりにしていた部分について考えざるを得なくなってきている。自分はもっといろんな所に住んでみたいけれど、今後どうなるんだろう。
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