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仙台の”何もなさ”を歩く(2)

仙台に対して「”何もない”と感じる」とはどういうことだろうか。
 
「仙台でも調べればちゃんと歴史はある」では、この問いの応えにはならない。
「調べればどんなところにでも歴史はあるはずだが、なぜそれが”見えなく”なっているのか」ということについて、
・”何もなさ”を一体どのようなこと・ものから感じているのか?
・”何もなさ”はどのようにして作られていくのか?
上記のようなことを自分なりに考察していきたいと思う。
 
この問いを設定する背景として、ひとつは、先日の記事で書いている。
それに加えて、もうひとつは、仙台の歴史や文化というと、伊達政宗関係のことには触れやすいが、伊達関係以外のことがどうも見えにくいと感じることにある。
確かに、仙台を築いたのは伊達政宗なので、仙台市の歴史といえば伊達関係の資料が中心になるのは当然のことかもしれない。
 
仙台がどのような歴史を経て、今の自分たちの暮らしに繋がっているのかを知りたいと思い、何度か仙台市博物館を訪れてはみるものの、「なんか伊達関係のことしかよく分からなかったな…」というのが見終えて実感として残る。
自分の住む団地の近辺がどのようになっていたのかを知りたいと思い、解説ボランティアの方に、伊達政宗が仙台に築城する以前の青葉山の姿について伺うと、「それは資料が残っていないのでちょっと難しいかもしれない。市博は、収蔵品の多くが伊達関係資料の寄贈から成るので、たしかに伊達関係以外の歴史についてはあまり知ることができないかもしれない」と教えて頂いた。
しかし、その欠如から考えられることもあるような気がした。
たとえば、常設展示にある『仙台城のすがた』には、伊達政宗は慶長5年(1600)、青葉山に仙台城を築き始め、翌年には城下町をつくり始めた。この場所には政宗以前の領主国分氏の千代城があったといわれている。」という記述がある。(伊達政宗の仙台運営が始まる直前まで、青葉山には中世の寺院があったと聞いていたが、それは国分氏の城のことなんだろうか?)その地を治めるものが入れ替わるにあたって、どのような力が働いたのだろうか。また、それによって、青葉山に与えられる意味や役割も何かしらの変化があったのではないだろうか。
国分氏について調べてみよう。
 
 
それから以前、仙台の歴史や文化の多くが失われた出来事として、「戊辰戦争」の影響の大きさを教えて頂いた。そのときは気がつかなかったが、たしかに、戊辰戦争とそれからの明治維新は、仙台のみならず日本が大きく変化をしていく出来事だった。明治維新による影響という点から仙台市内の寺社について調べると、仙台市のウェブサイトでは次のように書かれている。
 
 
明治維新後の仙台の寺・神社
 
明治維新後の寺や神社は、それまで藩から与えられていた領地が没収され、扶持米(ぶちまい:家臣のように藩から支給される俸給米)も打ち切られて、経営を維持することが苦しくなった。
廃絶したり近隣の寺社に吸収される例が多くあったほか、広い敷地を切り売りしたところも多い。また、明治元年(1868)の神仏分離例によって寺と神社は信仰と経営の両面で切り離され、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:寺や仏教徒を否定する運動)も起こって,荒れ放題になる寺院が少なくなかった。明治5年(1872)には修験が禁止され、廃寺となったり改宗した修験寺も多かった。

ー仙台市ウェブサイトより(http://www.city.sendai.jp/waka-katsudo/wakabayashiku/machizukuri/miryoku/terameguri/yogo.html
 
 
こうして見ると、大きな出来事としては、戦前〜戦後、戊辰戦争〜明治維新、仙台〜千代という変革期が仙台には存在しているようだ。一つ一つの変化の性質については、まだよく分からないが、この大きな出来事の前後で歴史は更新されてきたということなのかもしれない。このような節目は調べればもっと出てきそうだが、どうだろうか…
 
 

▲仙台城の石垣 
 

▲青葉山から北方を見渡す(撮影日:2018/4/14)... 続きを読む


Date: 06/22/2018 | Category: フィールドノート|仙台 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

鹽竈取材(権現堂、波切不動尊、東北本線)

七曲り坂から鹽竈神社を参詣し、表坂へ下る。
ひとまず思いの向くままに歩いてみようと、ゆるやかな坂道を登り、県道3号線と県道35号線の交差点まで来てみると、沢(?)がYの字に合流し、暗渠になっていく様子が見れる場所があった。
 
 
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Date: 06/19/2018 | Category: フィールドノート|地域 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

鹽竈取材(江尻、七曲り坂)

鹽竈神社へ登る最も古い道、七曲り坂。西町の「四方跡公園(よもせきこうえん)」にその登り口がある。
 
 

 

 
 
現在の住所は「西町」だが、かつては「江尻」と呼ばれたようだ。「この付近は古代・中世にかけて海が入り込み、入江の最奥部をなしていたことから江尻とよばれた(中略)ここを起点として、南の丘に登る道は、古代多賀城への古道とされ、また来たに登る七曲坂は鹽竈神社への最古の山道とされています。このように江尻は、鹽竈の港町の発祥の地ともいえる場所なのです」(看板解説文より)。
これを読むと、七曲り坂の入り口は、鹽竈を捉える上でなんだかとても重要な場所に思えてくる。かつての鹽竈神社は現在よりももっと海に近く、それこそ海へ突き出した岬の上の森に鎮座していた感じなのかもしれない。
 

 

 
四方跡公園内には、「影向石(ようごうせき)」と呼ばれる石があったとされる。「影向とは『神仏が一時姿を現すこと』(『広辞苑』)」。『新訳 奥鹽地名集』(p83)によれば、この「猿田彦大神」の石碑の前に置かれている石がそれではないかというものの、伝承では「今は土中にまいぼつして見えず。」と記述があることも紹介しており、確証に欠けるとのこと。地元の伝承では、平らで光沢がある鏡のような石で、これに自らの顔を映し、その映り具合で吉凶をうらなったのだという。
ところで塩土老翁神と猿田彦大神はどういう関係があるのだろう?どちらも水先案内人という役割では似た所があるのかもしれないけれど、不勉強でよくわからない…。(あとでネットで調べたら、同じような疑問を持っていた人が少なからずいて、それによれば『鹽竈社縁起』にその手がかりが書かれているとのこと。いわく、「鹽竈明神とは、塩土老翁、猿田彦命、事勝国勝命、岐神、興玉命、太田命の同体異名の6座であるとのこと。あまり私がここを掘り下げても頭と実感が追いつかないので、ひとまず保留としておく…)
 
 
前置きが長くなってしまったが、いよいよ坂へ。
 

 

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Date: 06/18/2018 | Category: フィールドノート|地域 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

鹽竈取材(西町、秡川)

塩作り工房を後にし、及川さんの話を思い出しながら鹽竈の町なかを歩きまわった。
正直、鹽竈を訪れた当初はどこを見たらいいのか分からず、とりあえず鹽竈神社と御釜神社を見るだけだったのだが、お話を聞いてから改めて歩いてみると、少しずつ鹽竈が見えてくるような気がした。... 続きを読む


 

鹽竈取材(塩作りの工房を訪ねる①)

塩作りのおじさんに会ってきた。私にとっては「やっと会えた」という感じだった。
以前に塩作りをモチーフにした絵を描いてはいたものの、塩作りの現場をみたことがなかったので、なんとなく後ろめたさがあったのだ。

 
緊張しながら工房にお邪魔した。奥の釜では塩が焚かれて(?)いた。
ひとまず、地域のことを調べたりしながら絵を描いてること、塩作りの文化に興味があり以前絵に描いたことがあることなど、軽く自己紹介をする。おじさんが開口一番に「塩作りの現場はどこかで見たことがあるのか?」と聞くので、「まだ見たことがないので見せてもらいたくて来た」と答えると、「お前は講談師みてえだな。実際に理解していないで見てきたように話す。ちゃんと現場のことを見てきたものでないと俺には響かないね」と返された。怒っている風でも咎める風でもなく、おれはそう思うね、という感じで。
血の気が引くと同時に、自分がとても恥ずかしくなった。でもそれは私を突き放すような態度ではなく、それからおじさんは、塩作りのことや、鹽竈の話をいろいろと聞かせてくれた。
 
市史や鹽竈神社に関する本で多少調べはしていたものの、やはり「会って話す」ということから得られるものは大きい。それは資料を読むことから得られるものはないということではなくて、自分の実感が伴わないと書かれたものを理解することは難しいのだ、私の場合は。
おじさんは自分の足でいろいろな土地へ出かけるらしい。そういう、「実感することから考える」ことを常にして来た人だからこそ、私の上滑りした感覚に意見してくれたのかもしれない。

 

 



 
さて、塩作りの工房は創業2009年。もともとは魚の加工を行い販売する商店を経営していたそうだが、地域の文化に根ざした事業を開発し地域活性化につなげようという市の動きや、「古来から塩作りが行われてきた土地で塩が生産されていない」という及川さんの想いが重なり、商店を改装して塩作りの工房を開くことになったという。
古来からの製塩技法を取り入れた塩作りで、ホンダワラで濾した潮水を竃で焚き上げることから「藻塩」と名付けられている。
窯焚きの工程は2段階あり、はじめに15時間ほど大きな釜で焚き、一晩置いて、鹹水の状態になったものをさらに焚きあげる。

 

 

▲ホンダワラ


▲ホンダワラで濾した潮水



 
初めの釜で焚いた際に出来上がる大きな塩の結晶は、この手間暇がかかる塩作りならではのもの。前日窯焚きをして、翌朝工房に来ると、釜一面に大きな塩の結晶が広がっているのだそう。これは常に出来るのではなく、何かしらの条件が揃ったときにしか発生しないらしい。

 

 

▲大きな塩の結晶



 
おじさんはこの塩の結晶を見て、旧字の「鹽」という漢字の「鹵」の部分がまさにこの結晶の形だと納得したのだそうだが、確かに見て納得である。

 
 

 

 
私が工房を訪ねたときは、窯焚きの第二工程が行われていた所だった。
 

▲鹹水を焚き上げている所


▲焚き上がった藻塩



 
また今度、最初の大きい窯を焚いている所を見せてもらう約束をした。

 

 
おじさんは「塩作り」の他にも、鹽竈の話をいろいろと聞かせてくれた。... 続きを読む


Date: 06/17/2018 | Category: フィールドノート|地域 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

鹽竈と鹽竈神社(メモ)

押木耿介『鹽竈神社』p.64より引用... 続きを読む


Date: 06/12/2018 | Category: メモ|地域 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

【お知らせ】『氏家昂大・田中望展 土のみち 土のさち』

この度、若手アーティスト支援プログラムVoyageとして、『氏家昂大・田中望展 土のみち 土のさち』が開催されることになりました。
 
2018年7月7日(土)〜8月26日(日) 企画展示室1・2
10時〜17時(入館受付は16時30分まで)月曜休館(ただし7/16[月祝]は開館、翌日休館)
観覧料(企画展+常設展セット)
一般 500円、大学生・高校生 400円、中学生以下無料
 
主催:塩竈市杉村惇美術館
共催:塩竈市
 
※若手アーティスト支援プログラム「Voyage」とは、これからの活躍が期待される若手アーティストの可能性に光をあて、新たなステップを提供することを目的に、展覧会を中心としてトークやワークショップ等多様な表現の機会を設ける事業です。
詳細は→ http://sugimurajun.shiomo.jp/archives/3899 ... 続きを読む


Date: 06/10/2018 | Category: お知らせ|展示 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

奥松島縄文村歴史資料館へ

塩竈での展示に向けて、「塩」について調べている。
先月になるが、5月26日、奥松島縄文村歴史資料館の菅原館長に「塩作り」についてお話を伺いに行った。

 
事前に私からは、「塩づくりの過程とその利用において、塩竈周辺の地域は他の地域とどのような関わりがあったのか」について関心があり、詳しく知りたい。以前、宮本常一の『塩の道』を読んで、塩に焦点を当てることで見えてくる、山の民と海の民の関わり合いや、交易品として他のものと交換される、という営みがあることを知り、塩釜周辺の塩に関わるネットワークから、この土地の成り立ちについて考えてみたい。という質問を投げかけていたのだが、今回、考古学の視点から捉えた塩の文化について教えて頂き、いろいろ考えが改まった。
「塩分」はたしかに生命を維持するためには欠かせないものであるけれど、縄文時代に浜に暮らしてきた人々は、動物の血や肉・骨髄などから塩分は摂取できていたのだろうとのこと。大変な労力をかけてまで、「海水を土器で煮詰める塩作り」を行うだけの理由は、自家消費というよりも、山のムラとの交易品として、また保存料として必要とされていたものと考えられる。なんと松島湾の製塩土器は、山を越えた山形県の遺跡からも発見されているという。さらに、縄文時代まで遡れるという塩作りの歴史も、連綿と続いてきたものというわけではない。古墳時代の製塩遺跡が確認されていないことから、少なくとも弥生時代後期ごろには行われなくなっていると考えられるという([参考:奥松島縄文村歴史資料館『縄文の塩作り』冊子])。しかし途中で途絶えつつも、古代になると、とくに平安時代には盛んに塩作りが行われるようになっている。これには、その時代の政治的・軍事的な要請というものが背景にある(例えば、松島湾沿岸で盛んに塩作りが行われたのは、朝廷と蝦夷の戦いが激化した時期にあたり、朝廷による東北経営とこの地域が深い関わりがあることを示している [参考:文化庁編『発掘された日本列島』2017] )。
今回お話しを伺って、塩竈に関わる塩作り文化の複層性を知ることができたような気がする。それは、「縄文人にとっての塩作り」、「国府としての塩作り」(「鹽竈神社の塩作り」もここに入る?)、「仙台藩の塩作り」、などであるが、そのほかに「日本塩業革命後の塩作り(イオン交換膜式製塩)」がこの地域になにかしらの影響を与えたのかも気になる。
まとまりのない感じになってしまったが、つまり今の段階ではまだまだ作品となる筋を見つけるには至っていないということです…。
来週は塩竈で塩作りをされている方のもとを訪ねる機会を得られたので、何かしらの進展がありますように(焦)。

 


 

 
ちなみに奥松島縄文村は野蒜駅から徒歩で行った。もしかしたら震災前に車で通ったことがある道かもしれない…と、何となく見覚えのあるような気がしつつも、まっさらに何もなくなってしまった風景が続いていた。野蒜駅からは歩くと一時間ほどかかる道のりだ。道路は工事用の大型ダンプが往来するし、太陽が照りつけるしで、木陰や休憩場所などがあるはずもなく、歩くのは慣れているけれどこれはちょっと大変かも…と思い始めていたところ、白い軽トラが私の横に止まった。
運転手のおじさん(70代くらいか?)が声を掛けてきた。どこへ行くのか?と聞かれ、奥松島縄文村です。と答えると、同じ方向だから乗ってけ、と拾ってくださった。こんな風に拾われたことは始めてだったけれど、躊躇なく乗り込ませてもらった。乗るやいなやおじさんが語り始める。「この辺はなにもなくなってしまった」。私は「この辺りにもお家があったんですか?」と訊ねる。「この辺もずっと集落があったんだ。俺は百姓をやってて、でも震災があってからやめたんだ。大変になったから。何にもなくなってしまったんだ。ガスもなにも止まって。震災から1ヶ月経ってやっと、人のうちでお世話になって風呂に入れた時のことが忘れられない。お礼にコンブを持っていった」。こんなことをずらずらと語り始めた。もう何度も、震災の時の話を誰かと話してきた方なのだろうと感じた。私はたまたまこのおじさんと出会って、話を聞かせてもらった人の何人目かなのかもしれないと思うと同時に、「誰かにこのことを話したい」というおじさんの想いを感じた。
10分もしないくらいで目的地に到着した。おじさんは耳が遠くて、じつは私の相槌や質問はほとんど聞き取れていなかったみたいだ。連絡先とお名前を聞かなかったことが悔やまれる。何かの拍子にまた出会えたらいいな。

 

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Date: 06/09/2018 | Category: フィールドノート|地域 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望

 

仙台の”何もなさ”を歩く

今から370年前、数年がかりで荒野に開かれた仙台の市街は、その後の拡張と数回の大火を経、その都度復興を重ねて来たが、昭和20年7月9日、ただ数時間の戦災のため、その中心部を焼野と化した。」(渡邊万次郎『わが町仙台3代(明治・大正・昭和)の思い出』頁210)... 続きを読む


 

浦戸諸島の島あるき①

仙台の近くにありながらつい最近までその存在を知らずにいた、浦戸諸島。職場で共に活動している「みやぎ民話の会」さんとの打ち合わせの中で話題に上がり、行ってみたい!と思っていた頃に、塩竈の髙田さんと島歩きをご一緒できる機会が得られた。しかもこの時はちょうど、塩竈市浦戸諸島で活動する写真家・喜多直人さんの写真展「同居湾」が開催中で、幸運にも島をご案内頂いた。
 
 




 



 
 
事前にgooglMAPでも確認していたのだが、実際に降り立ってみるととても小さい。離島というと、酒田の飛島には2回ほど訪れたことがあったが、飛島の孤島感とはまた違い、たしかに「同居」という言葉がしっくりくる感じがした。島自体が、一つの船のようにも感じる。
 
 



 
 
この小さい島と島の間をつなぐのが「市営汽船」と呼ばれる小さな船で、街なかであればバスの役割となるものだが、4人も乗ればなかなか窮屈なくらいの大きさである。そのぶん、普段近くでみることのない船の操縦が目の前で見れるのがおもしろい。船長さん?にも話しかけやすい距離感で、ほんの数分の移動だけれども、島の暮らしのことを聞いたりした。「島から島へ移動する生活」というのが私にとっては非日常的な世界で、何から何までが新鮮に思える。不便なことはないのだろうかと思って聞いてみると、「オレにとってはこんなに暮らしやすいとこはないね」という。「でも奥さんは不便がって塩竈に出たがる」のだそうだ。
 
 



 
 
聞くと、浦戸の島へ嫁いでくる女性は、松島からの方が多いらしい。
これは喜多さんに教えてもらったことだが、むかし松島から嫁いできた女性が「ネギのタネ」を持参してきたらしい。そのタネから育ったネギが、いまでも島の畑で育てられているよ、と、小さな畑を案内してくれた。「ネギのタネ」とともに嫁いできた女性はまだご存命とのことで、喜多さんは畑を眺めていたところ、そのご本人からこの話を聞かされたという。他の地域の民話で「あずき」を握って嫁いできた、というような話を聞いたことはあったが、「ネギ」は初耳だった。
 
面積の小さな島のなかには、小さいながらも豊かな充足感のある畑があちこちに見られる。基本的に自家用とのことで、タネの交配も限られてくる環境にあるため、「在来作物」もあるのでは…と思ったところ、やはり在来の白菜があるらしい。現物は見れていないが、機会があれば拝んで見たい。
 
 



 

 
 

汽船の船長さんが、「あの山の向こうに雲がかかると風が吹くんだ」と教えてくれた。島から見えるのは泉ヶ岳か舟形山だろうか?しばらくすると本当に風が強くなってきた。
 
 




 
 
(つづく)... 続きを読む


Date: 04/15/2018 | Category: フィールドノート|地域 | Name: Nozomi TANAKA / 田中望