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今から370年前、数年がかりで荒野に開かれた仙台の市街は、その後の拡張と数回の大火を経、その都度復興を重ねて来たが、昭和20年7月9日、ただ数時間の戦災のため、その中心部を焼野と化した。」(渡邊万次郎『わが町仙台3代(明治・大正・昭和)の思い出』頁210) 私が育った緑ヶ丘団地は仙台市近郊の丘の上にある。階段状に削られた丘陵の斜面に、へばり付くようにして家々が立ち並ぶ風景はなかなか壮観だ。「緑ヶ丘」と聞いてピンと来ない人でも、「あの“地滑り”の…」と言えば、ご理解頂けるのではないだろうか。 ![]() 「近郊山地の住宅化は、戦後急速に加わった。中にも向山一帯、北山の背側、台の原等には、個人或いは市営住宅が急増したが、それらの多くは個別或いは少数戸数の集団に過ぎなかった。 これを多くの戸数を含んだ住宅集団即ち団地として造成を開始したのは、主として昭和35年、県の住宅公団による黒松団地の開発以来で、市役所職員組合による荒巻の共済団地、東南商事会社の緑ヶ丘等、また時を大体一体にして、その前にできた三和商事の小松島住宅また名称を旭ヶ丘としてこれに加わった」(渡邊万次郎『わが町仙台 3(明治・大正・昭和)の思い出』頁211) 私が育った団地も、前述の近郊山地の宅地化の流れの中で、昭和35〜40年にかけて作られた団地だったことを知った。 「仙台は住みやすい町」と思っている住民は少なくないのではないだろうか。この住みやすい町は、戦後の復興期にその原形がかたちづくられたようだ。そして、この住みやすさは、仙台に感じる「何もなさ」と、無関係ではないような気がしている。 焼け野原となった仙台は数十年をかけて復興を重ねてきた。道路の完成や空き地が完全に消えたのは、昭和20年からおよそ30年後の昭和51年末だが、「しかし再生した仙台は、すでに昔の仙台ではない。」(渡邊万次郎『わが町仙台 3(明治・大正・昭和)の思い出』頁210) 仙台の歴史的な建築などは、戦争によってその多くが失われたり、傷ついたということを、小学生のころに教わった。失われた道路や建物は再生されたが、しかし、かつての仙台の“何か”が継承されなかったということなのか。 …こんなことを、仙台のまちあるきでご一緒した方(70代・男性)と話していた。その方によれば、「戦争によって失われた面もあるけれど、仙台で歴史や文化が失われたのは戊辰戦争期がもっともっと多いよ」と教えて頂いた。 仙台に対して「”何もない”と感じる」とはどういうことだろうか。「仙台も調べればちゃんと歴史はある」では、この問いの応えにはならない。「調べればどんなところにでも歴史はあるはずだが、なぜそれが”見えなく”なっているのか」ということに関心がある。自分は、「”何もなさ”をいったい何から感じているのだろうか?」そして、「”何もなさ”はどのようにして作られていくのか?」このようなことを、歩きながら考えてみたい
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